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 新羅三郎義光の三孫常陸湛城主佐竹刑部義兼の子佐竹昌義、久安五年十月近衛帝熊野神社行幸の際賊徒を討ちて武勇ありとて佐竹を佐武と改めしめらる。

 其の子義量の三男彌五郎信貞、明光上人の弟子となり。中国巡化の節随従、備中国を化導し川上郡に赴く。轉宗するもの多し、同じく久留美谷光福寺に於いて「悟導得法の眞諦を述べ、念の無念に超ゆるは念仏の一門なり。無生の生に勝れるは往生往土の門なり」とて他力易行の理を説きたれば、遂に住職信願真宗に轉宗。

 文暦元年正月十五日の草創、明治四年焼失本堂なし。本尊を佐武健導宅へ安置す。

 

 境内  二百九十六坪

 

 

 

 神石郡誌より

 

時安村光福寺本堂図面並びに寺社奉行に宛てた書附の古文書解説

 

 当郡久留美法重山光福寺の「桂堂」の伝記については郡誌に記載されているが、昔近くの国有林青滝山に大桂樹二本あって、一樹は周り七丈二尺他は六丈七尺で大きい木を雄樹、小さい木を雌樹といっていたが、その雄樹を切り他樹を交えず建立された。この「桂堂」は世に稀有の建築として内外に聞え、諸方より訪い来ってその由緒を尋ねる者多しと名声を博しましたが回禄(火災)のため焼失いたしました。それより欅を集めて本堂を再建されましたが、又も惜しいことに明治四年四月二十八日祝融の厄(火災)に罹り焼け落ちました。この本堂の結構等知る人もなかったのですが、当所出身吉岡弘次氏が古文書整理中、「欅材使用の本堂図面」と「寺社御奉行所への願い書」が発見されました。本堂は精巧な斗組み、蟇又等彫刻、蔀戸等の優雅な気品に満ちたもので、春日仏師作の御本尊阿弥陀如来御尊像の動坐にふさわしいものであったと思います。

 

 次に古文書の解説をいたします。

「恐れながら書付を以ってお願い申し上げ奉り候」

抑々当山は、高祖親鸞聖人の御直弟、当国山南村光照寺の開祖明光上人の御直弟信願法師の開起し玉ふてより重代寺務隆(さか)んで時に及びし哉、文化十三年霖(りん)月(なが雨の月)の頃雷火にて一山残らず焼失せり。惜しむ可きは本堂、時安村に育てる大桂樹二本有りけるに、蕨の(その)一樹を截(き)り、木を採り枝を聚(あつ)めて本堂建立仕る、実なる哉、戸障子迄も桂木にて外木を交えず候ところ、前書の通り回禄(火災)のおよび寺檀共歎き入り申候。早速再建仕り候得共、ようやく槻(けやきの一種)を集め小堂を建つ。然りと雖(いえ)も造営も今以て皆成就仕らず。猶又御本尊を始め奉り。高祖師、御代々の善知識、聖徳太子、三国之七祖の悉皆御荘厳の仏具御座無く候に付き且つ尊前礼拝のこと毎に、御敬之薄くなる事相歎き候え共、元来少檀那録之儀にて、自力に相整え得る力にあたらざる義に御座候間、何卒御領分一統え多少に限らず懇志の勧化、御慈悲を以って御免じ成し下され、衆力にて尊顕(そんけん)之(尊とび)次第、相ととのえる御慈しみばかりを希い、郡村々へ恐れ入り存じ奉り候え共御添(ごてん)書(しょ)成し下ぜられ候はば広大のお陰と有り難く存じ奉る可く候。之に依って書付を以ってお願い申し上げ奉り候処件の如し

末九月                         神石郡時安村

                                  光 福 寺

寺社

御奉行所

 

 すべての願記、報告が庄屋を通して運ばれました。この願いが大庄屋吉岡氏を経由して寺社奉行所へ提出されたのです。大檀那吉岡成則(第五代)光福寺桂堂建立の記録もありますが、この時も吉岡氏を先頭に郡・村々の浄財を得て再興したとおもいますが、又も灰燼に帰してしましました。現在の本堂は戦後再興されました。

光福寺の祖佐武信貞は祖が清和源氏で今の茨木県(常陸の国)の大部の郷の大主でしたが親鸞聖人の直弟明光上人の門人となり、信願法師と法名を腸い備中の有縁の衆徒を仕導して時安村光福禅寺に来り、和尚に弥陀大悲の誓願、他力易行念仏法門の理を説く終に宿善開発の機来り転宗して門弟となる。信願法師転宗の開始の住となり、小畠村九鬼城主馬屋原但馬守妹松女を迎え代々伝燈二十三世健章法師にいたっています。

文化十三年(1816)

 

 

明治4年に、社寺役所より、時安地域にある9神社の御神体のうち仏体が当山に移され、今もなお時の流れを見守っている。

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